30 August 2009

fireworks

かつて私は孫だった。
そんな当たり前のことを、もう長いこと意識してこなかった。



私は祖父に育てられた。

父にも母にも祖母にもみねさんにも育てられたが
とりわけ幼少の頃は、祖父に育てられた。らしかった。

多くの人の記憶の中で、私は祖父と一体となっているのだ。
祖父の膝の上にちょこんと乗っかっていた私。
祖父の腕の中に心地よく納まっていた私。
祖父の胸元にはいつも、私の頭があった、勲章のように。

  「この子は父の、勲章でした」

私の結婚式で、父はそう言って泣き崩れた。

祖父はよく、スーパーへ連れて行ってくれた。
必ずアイスクリームを買ってくれ、帰り道に一緒に食べた。
『モモ』とか『はてしない物語』は祖父の本棚から拝借した。
俳画をたしなむ人で、私にも何枚も小さな色紙に描いてくれた。
私のことを詠んだ歌だと、とりわけ嬉しかった。
祖父が一日の大半をベッドで過ごすようになってからも、
祖父の部屋へはちょくちょく遊びに行っていた。
おじいちゃんご飯よ、と呼びに行くのが、小学生の私の役割だった。
そんな思い出はしかし、丹念に手繰り寄せないと、出てこない。

祖父は私が18歳のときに他界した。
晩年の、弱々しく惨めな姿はいとも簡単に思い出せてしまう。
食べ物がろくに喉をとおらず、口に入れては吐き出し、
液体ばかりを飲み込み、はては食卓でうがいをし、
食事中でも構わず足元の猫に食べ物を落としてやるので
祖父の食事はひどい有様だった。
たまの帰省で一緒に食事をしても、その食卓は重く、暗く、寒々しかった。

祖父はそうやって、かつての威厳も知性もプライドもなくした、
一個の生物体のような数年を経て、他界した。

悲しかったか。
きっと。
でも多分すこし、ほっとしていた。
これ以上、祖父が惨めな姿にならなくていいことに。
これ以上、母が介護で疲弊しなくていいことに。

もう少し正確に言うと、
これ以上、祖父の惨めな姿を見なくてすむことに。
これ以上、母の介護で疲弊した姿を見なくてすむことに。


この夏、20年ぶりくらいに訪れた祖父の弟の家。
社会的地位も財産も比較的ありそうなその家へ行くことに
はじめは気後れもしていたが
90歳になるというその大叔父は、歳のせいもあるのだろうか、
祖父に、声も顔も喋り方もそっくりで、

  あ、おじいちゃんがいる

突然私の中に、祖父の記憶が蘇った。
祖父の死後初めて、祖父のことを懐かしく思った。

大叔父は、昔私がその家で迷子になったことをよく覚えていて
ここにも一人、私を記憶してくれている人がいるということにも
温かな驚きを抱いた。


私がどんな人間か、なんてことは全く関係なく、
孫として生まれた、ただそれだけの理由で
あんなにも可愛がられていたのだということに、
そのことがどれだけ得難いものだったのかということに、
今になってようやく気づいてしまう。

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