31 October 2014

his blue backpack

子どもを育てるということは、自分がいかに育てられたかを折に触れて思い出すことでもある。それはわりと、しんどいこと。

ある日曜日の午後、2時間だけ自由時間をもらって、小さなリュックを買いに行った。保育園の遠足のために、用意して下さいと言われたから。それで私は買いに行った。そのためだけに地下鉄に乗った。

子どもの頃の私がしてもらえなかったことを、したかったのだろうと思う。末っ子の私は、おもちゃも学用品も制服も、お下がりか、家のどこかにあるものを使うのが常だった。

その子のためだけに、子どもらしいものを、きちんと選んで用意してあげる。そこに満足を覚えた私は、けれどふと周りを見回すと、できたお母さんたちが多くて、気後れしてしまう。みんなにとって当たり前のような、リュックひとつ買う程度のことから出発している私は、もっと大きな意味できちんと子どもの心に向き合えている彼女たちには、なにもかも、もう決して追いつけない。

母が私に与えてくれたたくさんの愛情や体験や知識の半分も、私は息子に与えられないくせに、母のダメなところばかり、そのまま受け継いで、その小さな体に浴びせている。

11 December 2010

November 16, 2010

金曜日の朝、私たちは南へ向かう通りを歩いた。
金曜日にしか開かないという、ごく小さなチーズケーキ屋を見つけ、
二つ買って、二人で朝のおやつにした。

明くる週の木曜日、今度は西へ向かった。
古い銭湯を改築したお店で昼食をとった。
お腹は満ち、ソファは居心地がよく、秋の日は暖かで、
私たちはつい、うとうとした。

金曜日、北へ向かい、色づき始めたいちょう並木の下をゆっくり歩いた。
中学生たちが駆け抜ける通りを、私たちはあくまでゆっくり、歩いた。

土曜日、歩き慣れた東への道。
いつも気になりながら立ち寄ることのなかったカフェにようやく入った。
一人で切り盛りされるその空間に流れる時間は緩やかで、
今の私たちにちょうどよかった。

日曜日、再び南へ、今度はもう少しだけ遠くへ。
袋小路に思わぬ抜け道を見つけ、嬉しくなった。
休日なのにたくさんの人であふれている大学の学食で昼食を取り、
こんななんでもない場所も、二人で来るのは初めてで、新鮮に感じた。


私たちの人生にもう二度と訪れることのない、
奇跡的に与えられた空白の時間を、
こんなふうにして私たちはゆっくり過ごした。
これから私たちの人生に訪れる変化への
期待と不安は胸にしまいこみ、
多くを語り合うことなく、
私たちはただ、ゆっくりと歩いた。
一歩一歩踏みしめるように、
時に立ち止り、
息をして、
座り込んで、
手を取って、
また立ち上がって。

この時間が二度と巡ってこないことを、惜しいとは思わない。
しかしこの先、私の人生の中で確実に、
かけがえのない日々として記憶されるのだろうとも、思う。


その次の火曜日、私たちは、三人になった。

30 August 2009

fireworks

かつて私は孫だった。
そんな当たり前のことを、もう長いこと意識してこなかった。



私は祖父に育てられた。

父にも母にも祖母にもみねさんにも育てられたが
とりわけ幼少の頃は、祖父に育てられた。らしかった。

多くの人の記憶の中で、私は祖父と一体となっているのだ。
祖父の膝の上にちょこんと乗っかっていた私。
祖父の腕の中に心地よく納まっていた私。
祖父の胸元にはいつも、私の頭があった、勲章のように。

  「この子は父の、勲章でした」

私の結婚式で、父はそう言って泣き崩れた。

祖父はよく、スーパーへ連れて行ってくれた。
必ずアイスクリームを買ってくれ、帰り道に一緒に食べた。
『モモ』とか『はてしない物語』は祖父の本棚から拝借した。
俳画をたしなむ人で、私にも何枚も小さな色紙に描いてくれた。
私のことを詠んだ歌だと、とりわけ嬉しかった。
祖父が一日の大半をベッドで過ごすようになってからも、
祖父の部屋へはちょくちょく遊びに行っていた。
おじいちゃんご飯よ、と呼びに行くのが、小学生の私の役割だった。
そんな思い出はしかし、丹念に手繰り寄せないと、出てこない。

祖父は私が18歳のときに他界した。
晩年の、弱々しく惨めな姿はいとも簡単に思い出せてしまう。
食べ物がろくに喉をとおらず、口に入れては吐き出し、
液体ばかりを飲み込み、はては食卓でうがいをし、
食事中でも構わず足元の猫に食べ物を落としてやるので
祖父の食事はひどい有様だった。
たまの帰省で一緒に食事をしても、その食卓は重く、暗く、寒々しかった。

祖父はそうやって、かつての威厳も知性もプライドもなくした、
一個の生物体のような数年を経て、他界した。

悲しかったか。
きっと。
でも多分すこし、ほっとしていた。
これ以上、祖父が惨めな姿にならなくていいことに。
これ以上、母が介護で疲弊しなくていいことに。

もう少し正確に言うと、
これ以上、祖父の惨めな姿を見なくてすむことに。
これ以上、母の介護で疲弊した姿を見なくてすむことに。


この夏、20年ぶりくらいに訪れた祖父の弟の家。
社会的地位も財産も比較的ありそうなその家へ行くことに
はじめは気後れもしていたが
90歳になるというその大叔父は、歳のせいもあるのだろうか、
祖父に、声も顔も喋り方もそっくりで、

  あ、おじいちゃんがいる

突然私の中に、祖父の記憶が蘇った。
祖父の死後初めて、祖父のことを懐かしく思った。

大叔父は、昔私がその家で迷子になったことをよく覚えていて
ここにも一人、私を記憶してくれている人がいるということにも
温かな驚きを抱いた。


私がどんな人間か、なんてことは全く関係なく、
孫として生まれた、ただそれだけの理由で
あんなにも可愛がられていたのだということに、
そのことがどれだけ得難いものだったのかということに、
今になってようやく気づいてしまう。

14 September 2008

happy birthday to me

こないだ、30歳になりました。



私の人生の、トンネル


ではなくて、
MIHO MUSEUM に行きました。
上品な趣味のよい美術館でした。




お野菜もおいしく。







あとは猫カフェに行きました。

いっけんめ。



ごろごろにゃん。









にけんめ。

チェブラーシカの湯たんぽを見つけました。
欲しいと思う前にすでに腕が伸びてました。
数多あるチェブ・グッズの中でもかなりハイレベルな出来=かわいいー






さあて、どんな30代にしようかね。

20 March 2008

yellow eyes

あおやまさんは、黄色い目をして、お顔もまっ黄色になっていて
それでも気丈に起き上がり、いつになくよく喋り
元気にご飯を召し上がり、同室の人たちに気を遣って
私たちが待つ廊下へと歩いて来られた

あおやまさんは、私の顔を見るたびに、
いい顔だ、幸せになる、大丈夫、と褒めてくださって
それはただ、鼻が大きいから、という理由だそうで
喜んでいいのか悲しんでいいのか怒っていいのか分からないが私は
大丈夫だと励まされることがやっぱり嬉しくて
だから、あおやまさんに会うと安心する

仲良うしなさいね
幸せになりなさいね
いいときばかりではないけどね
二人で乗り越えなあかん
自分らで乗り越えなあかんよ
大丈夫 幸せになる 
仲良うしなさいね

わたしたちの世代の人間には、想像もつかないくらいの苦労をされて
文字通りご自身で道を切り開いて来られた方のそんな言葉を
私はただ、うんうんと、聞いている

29 December 2007

Year 2007


テレビを見なくなった年。
髪がずんずん伸びた年。
英語力がさらに落ちた年。
人間関係が狭くなった年。
合気道が一向にうまくならなかった年。

世紀の大旅行(?)をした年。
もう充分だ、と思った年。
もう充分に幸せな時間をもらった、と思った年。
だから、飛び立つ準備はできたと思えた年。

欲と闘った年。これは来年も続く。
誰が敵か味方か分からなくなった年。
三浦基をはじめて観た年。
前田司郎を観逃した年。

自分の先行きについて無防備に無計画であったがゆえに
人生に躓いてしまった人を見て、ああはなるまいと思った年。
早々と見切りをつけて仕事をやめようと決意した年。
やめられない現実がでてきて、結局自分も
無防備に無計画になるよりほかにないことを悟った年。

お姉ちゃんが旅立った年。
思いがけなく淋しく感じた年。
誰かを自分の人生に巻き込んでしまった年。
その恐ろしさにおののいて、何度も泣いた年。

自分の下した決断が、人をあんなに喜ばせたのは、
はじめてだったのじゃないだろうか。
あの日私の手を腕を力強く握ったおばあさんの、
あの感触をたよりに、私はこれからを生きるのかと思う。

日記を書かなくなった年。
書かなくてもよくなった年。